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Michiko with friends
 

    


女子学徒隊


第二次世界大戦中、日本軍は沖縄県の女学校の生徒たちに短期間で看護師の実習教育訓練して、負傷兵の看護に当たらせました。女子学徒隊とは、法的根拠もなく戦場に駆り出されたそれら少女たちのことです。

1944年10月10日連合軍の空襲(10・10空襲)で那覇の街は壊滅状態に陥りました。その後1945年3月から沖縄諸島は連合軍の砲弾の雨を浴びました。4月1日に連合軍が沖縄本島に上陸してからは、日本軍の戦死者、負傷兵の数は増えていくばかりでした。女子学徒隊の女学生たちは、にわか仕込みの看護師として軍医や衛生兵の下で日夜負傷兵の手術や看護に明け暮れました。

配属された部隊によって、女子学徒隊の扱いも大きく異なっていたようです。人命を尊重する部隊長の下で従軍した女子学徒隊の女学生たちは、壕の奥の安全な場所から出ないように言われ大事に扱われたそうです。宮城巳知子の瑞泉学徒隊のように、厳しい部隊長の下で従軍した女子学徒隊の女学生たちは、敵の砲弾が雨あられのように降る中、芋を掘りに行かされたり、水を汲みに行かされたしたそうです。

瑞泉学徒隊、ひめゆり学徒隊、白梅学徒隊、なごらん学徒隊、積徳学徒隊、梯梧学徒隊、宮古高女学徒隊、八重山高女学徒隊、八重農学徒隊女子の全9校の女学生555名のうちで、生き延びたのは、361名でした。宮城巳知子の瑞泉学徒隊は61名いた友が、終戦時には半分以下の28名になっていました。

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